2026.05.18

minekokatoとは何か。私がお菓子をつくる理由。

minekokatoとは何か。私がお菓子をつくる理由。

お菓子を食べる時間は、本来、とても自由で幸福なものだと思う。
美味しい、と感じて、少し心がほどける。
それだけで十分なはずなのに、私は昔から、その奥にあるものへ視線を向けてしまう。

この素材は、どんな土地の光を浴びてきたのだろう。
誰が、どんな季節の中で育てたのだろう。
その背景まで含めて、本当に美しいと言えるのだろうか、と。

イタリアで過ごした年月の中で、私は、本当に心に残る料理には必ず“背景”があることを知った。

朝露を含んだ空気。
雨上がりの土の匂い。
遠くの山から流れてくる水。
生産者の手に積み重なった時間。

そういう目には見えないものが、静かに溶け込んだひと皿。

食べ終わったあとにも、言葉にならない感情だけが、身体の奥に残り続ける。

ただ美味しいだけでも、ただ美しいだけでもない。
まるで短い詩を読んだあとのように、感覚だけが静かに余韻として漂い続ける。

私はその感覚を抱えたまま、日本へ戻った。

帰国してから、日本各地の生産者を訪ねることが増えた。
その中で出会った、小さな和菓子屋の景色を今でも忘れられない。

人気の少ない町。
静まり返った商店街。
湿気を含んだ木の引き戸。
薄暗い厨房に立ちのぼる、小豆を炊く香り。

そこでは、何十年も変わらず、お菓子が作られていた。

一つ200円のお菓子の中に、気が遠くなるほどの時間と手間、そして誇りが静かに折り重なっていた。

けれど、その文化は、音もなく消えようとしていた。

後継者がいない。
この代で終わるかもしれない。
それでも毎朝変わらず、小豆を炊き、餡を練り、季節のお菓子を作り続ける。

その姿を見たあと、私は前と同じようには、お菓子を作れなくなった。

食は、ただ消費されるものではない。
自然や文化、人の記憶や祈り、生き方そのものと深く結びついている。

minekokatoは、そういう問いから生まれた。

誰かに消費されるためではなく、
食べ終わったあとも、感情だけが静かに残るものを作りたい。

味ではなく、感覚として記憶に残るもの。
まるで遠い風景のように、ふとした瞬間に心へ戻ってくるもの。

素材を選ぶこと。
レシピを考えること。
形にすること。

そのすべての中心に、「いのち」という感覚を置きたいと思っている。

植物由来の素材を多く使うのも、100年後の土や森の未来を想像しながら農業を続ける人たちに、深い美しさを感じるから。

添加物をできる限り使わないのも、食べる人の身体に対して、静かな誠実さを持っていたいから。

でも私は、ラベルだけで世界を分けたいわけではない。

日本みつばちの蜂蜜のように、使い続けることで守られる自然もある。
山地酪農の牛乳のように、その土地の循環の一部として存在しているものもある。

大切なのは、名前や正しさではなく、一つひとつの選択に、自分の感覚で責任を持つことなのだと思う。

日本には本来、自然を敬い、移ろいの中に美しさを見出す感性があった。

風の匂い。
雨の気配。
雪解けの水の冷たさ。
花が散る瞬間の静けさ。

和菓子には、そういう日本の感覚が宿っている。

私もまた、その長い時間の流れの中の、小さな一部としてお菓子を作っている。

本当に美しいものには、きっと、“いのち”への敬意が宿る。

私はその静かな美しさを、お菓子という儚い形の中に残したい。

そして食べ終わったあと、ほんの少しでも、世界の輪郭が柔らかく見えていたなら。

それが、minekokatoという存在の意味なのだと思う。

 

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