minekokatoとは何か。私がお菓子をつくる理由。
お菓子を食べる時間は、本来、とても自由で幸福なものだと思う。
美味しい、と感じて、少し心がほどける。
それだけで十分なはずなのに、私は昔から、その奥にあるものへ視線を向けてしまう。
この素材は、どんな土地の光を浴びてきたのだろう。
誰が、どんな季節の中で育てたのだろう。
その背景まで含めて、本当に美しいと言えるのだろうか、と。
イタリアで過ごした年月の中で、私は、本当に心に残る料理には必ず“背景”があることを知った。
朝露を含んだ空気。
雨上がりの土の匂い。
遠くの山から流れてくる水。
生産者の手に積み重なった時間。
そういう目には見えないものが、静かに溶け込んだひと皿。
食べ終わったあとにも、言葉にならない感情だけが、身体の奥に残り続ける。
ただ美味しいだけでも、ただ美しいだけでもない。
まるで短い詩を読んだあとのように、感覚だけが静かに余韻として漂い続ける。
私はその感覚を抱えたまま、日本へ戻った。
帰国してから、日本各地の生産者を訪ねることが増えた。
その中で出会った、小さな和菓子屋の景色を今でも忘れられない。
人気の少ない町。
静まり返った商店街。
湿気を含んだ木の引き戸。
薄暗い厨房に立ちのぼる、小豆を炊く香り。
そこでは、何十年も変わらず、お菓子が作られていた。
一つ200円のお菓子の中に、気が遠くなるほどの時間と手間、そして誇りが静かに折り重なっていた。
けれど、その文化は、音もなく消えようとしていた。
後継者がいない。
この代で終わるかもしれない。
それでも毎朝変わらず、小豆を炊き、餡を練り、季節のお菓子を作り続ける。
その姿を見たあと、私は前と同じようには、お菓子を作れなくなった。
食は、ただ消費されるものではない。
自然や文化、人の記憶や祈り、生き方そのものと深く結びついている。
minekokatoは、そういう問いから生まれた。
誰かに消費されるためではなく、
食べ終わったあとも、感情だけが静かに残るものを作りたい。
味ではなく、感覚として記憶に残るもの。
まるで遠い風景のように、ふとした瞬間に心へ戻ってくるもの。
素材を選ぶこと。
レシピを考えること。
形にすること。
そのすべての中心に、「いのち」という感覚を置きたいと思っている。
植物由来の素材を多く使うのも、100年後の土や森の未来を想像しながら農業を続ける人たちに、深い美しさを感じるから。
添加物をできる限り使わないのも、食べる人の身体に対して、静かな誠実さを持っていたいから。
でも私は、ラベルだけで世界を分けたいわけではない。
日本みつばちの蜂蜜のように、使い続けることで守られる自然もある。
山地酪農の牛乳のように、その土地の循環の一部として存在しているものもある。
大切なのは、名前や正しさではなく、一つひとつの選択に、自分の感覚で責任を持つことなのだと思う。
日本には本来、自然を敬い、移ろいの中に美しさを見出す感性があった。
風の匂い。
雨の気配。
雪解けの水の冷たさ。
花が散る瞬間の静けさ。
和菓子には、そういう日本の感覚が宿っている。
私もまた、その長い時間の流れの中の、小さな一部としてお菓子を作っている。
本当に美しいものには、きっと、“いのち”への敬意が宿る。
私はその静かな美しさを、お菓子という儚い形の中に残したい。
そして食べ終わったあと、ほんの少しでも、世界の輪郭が柔らかく見えていたなら。
それが、minekokatoという存在の意味なのだと思う。